MEMO

 

2017 11 14

画題や、具体的形象の多く、そういうものがアンリアルでしかたがない。
むしろ絵画を構成する物質、西洋の色材である油絵具、キャンバスそれ自体に、歴史の重さや堅牢さを感じる。そこで自分は何もできないのではないかという無力感をかかえる。
しかし自分は自分に操られ絵を描くしかない、という感覚がある。
調子のいい時は無心に、坦々と絵が出来ていく。そう言うリアリティーがある。

 

 

2017 10 6

無対象であると言うこと。
しかし私は一方で、絵画や絵画史、絵画の素材それ自体に触発されている。
そういったものが対象であると同時に、普段の暮らしを生きている。

純粋な無対象ではないのだ。

制作は、コントロールするのではなく、私がそれら様々なものごとにコントロールされながらすすんでいく。
何かに操られているかのように。
選択しているようでいて、選択の余地はないかのようだ。

消極的なこともある。細部を見過ぎてしまうこと。気づくと安定したものを欲していること。作風が一様でないこと。しかし、これらのことは必然なのではないかと思うようになった。

なんでもできるようでいて、なにもできない。何も描き得ないかもしれない。

すべては間違えているのかもしれない。
しかし、何故だかわからないが今日も描かなければいけない。

そのうえで描く。
そういうことなのだと思う。

 

 

2016 8 24

「対象」

絵をかくときは常に絵の印象をみている。たいがいどんな風に描いても、どこかの時代の誰かの絵を想起する。それは残念なことだった。
しかしいまは、画面が信用できるものだったら手を止めることができる。何かに似ていたとしても。理由の1つに線の要素に興味がいっているということがある。透明ということ。

この歳になって、未だ右往左往している。まだ習得していない技術や知識があるような気がしていることも関係しているが、それよりももっと切実に、描く対象がほしい思っている。
36歳になる自分は対象を持ち得ていないが、こういう風に手を動かしたい、とか、絵が破たんするかもしれないがこの色を使いたいとか、そういう欲望がある。それら欲望に名詞や形容詞あたえる。ぼんやりと対象が見え隠れする。

写実絵画の素直さが昔から好きで写実したいという気持ちがあるから、スケッチをする。しかし、モノをみることと、それに連動して手を動かす、色を塗る、線を引く、点を打つことが結びつかない。どこか仕事に実感が沸かない。やりとりのリアルさに欠ける。要するに、自分は身に覚えのあるやり取りのみで絵を描きたいのだ。

美しい画材は現実に見えている世界を写しとるツールにはならない。
おそらくこれから自分に可能なことは、バラバラになった思考や感覚の行為をまとめていくことくらいだ。
しかし、輪郭線がない。だから、対象がほしい。 そんなことを考えている。

 

 

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「言葉と変なかんじ」

文章を書かなければいけないといったときに、それは作品をつくることとほぼ同じことだとわかった。

今年の4月に学芸員の濱田さんから執筆の依頼があり、それから文章を書いては直し、書いては直し、そして時々原稿を捨てて、またはじめからやり直して、ようやく8月あたりに納得のいく原型が見えてきた。
あとはときどき違和感のある部分を微調整してきたのだが、土壇場になって猛烈に嫌になってボツにした。もう10月だ。

なんでこんなにも文章をかくにあたり神経質にならなくてはいけないのかというと、現代美術である以上、自作についての理念やら理論やらを整然と展開しなくてはいけないような気がしているからだ。
そういったことを考えてはいるのだが、一向に考えがまとまらないので、声を大にして言えることもない。または、言葉にしてしまうと、とたんに嘘になってしまう何かがあるように思えて、だからこそ声を大にできない。そしてまたこのフレーズもありきたりで、いよいよ嫌になるのだが、そういう変な感じがあるからこそおもしろいのかな、とも思う。

変な感じ、これこそが大事なのだろうか。変な感じを、まさしく感じているその時においては、どんなに堅牢でロジカルな理論も理屈も追いつかないのだろうかと脳裏をよぎった。変な感じの最上級を感じることが出来たら、それはすごいことだ。おそらくこれが芸術の扱うべきところで、自分の目指すところなのだろう。非常に抽象的な言い回しで、伝わらないかもしれないが。

昨日、ニュートリノという素粒子に質量がると突き止めた日本人にノーベル賞が授与された。それが、ゆくゆくは宇宙の謎を突き止めることになる大きなきっかけになるかもしれない、とのことだが、個人的には宇宙の謎はそのまま謎として味わっていたいというような心情がある。「宇宙には、壁がないんだ」と、幼少のころ父から(ある種変な言い回しで)断言された時の、宇宙に関する途方もない「変な感じ」は、ほんとうにいいものだからだ(この感覚を、例えば大人ぶって「深淵である」とか言ってしまうと、またなにか違ってくる)。

先日、ブリヂストン美術館で見たシニャックのコンカルノー港という絵を思い出した。シニャックという画家は自分の中での偉大な画家として全く認識されていなかったからびっくりしてしまった。あまりにも変な感じがして30分くらい、絵の前にいた。ギリギリまで寄ったり、斜めからのぞいたり、離れてぼんやりながめたり。いっそのこと家に持ち帰りたかった。なんだかよく解らないが、この絵があれば自分の人生は大丈夫だろう、とさえ思った。
自分は変なことを言っているのだろうか。

画家は作品をつくり、言いたいことはすでにそこにあるのだから何も言わなくていい、ということに心の奥底で賛成している自分がいて、さらに、自分の考えやうっかりした発言が残ってしまうことが怖いのだが(そして実際、残っているのだが)、自分の言葉に大きな違和感を覚えながら、ゆっくりと、ギリギリまで考えることができ、結果としてよかったと思う。

2015. 川越市立美術館 「ペインティングの現在」図録掲載エッセイより